太田道灌とは(1432-1486)
太田道灌(1432-1486)は15世紀の中頃に関東一円で活躍した武将です。
三十数度戦って負け知らずの名将であると同時に、
当時の京都を代表する高僧や文化人とも交流があり、和歌にも優れた教養人で、江戸時代は「文武両道の鑑」と称えられました。
扇谷上杉家の家宰(筆頭家老)として主家のために懸命に働くものの、思慮の浅い上司に謀殺された悲劇の名将です。
当時も道灌は関東一円で人気が高く、相模にいた上司の扇谷上杉家当主上杉定正がこうした道灌の才能・名声を妬んでの凶行でした。
道灌は最後に「当方滅亡」と言って息絶えますが、「当方」とは自分のことではなく、主家である上杉家のことでした。
この予言通り上杉家は以後衰退の一途を辿り、その間に小田原の北条氏が関東へ進出し、上杉家は越後の長尾景虎に上杉の名前を譲らざるを得なくなったのです。
江戸時代になり、道灌の人気が高まり、「太田道灌雄飛録」という書物がベストセラーになりました。
これは道灌の生き方や最期が、判官贔屓の江戸市民に愛されたからです。言ってみれば道灌はサラリーマンの鑑ですが、最近になって道灌の人気が再び高まっています。
定年退職した団塊の世代が「上司ために働きながら報われることが少なかったサラリーマン生活」を、道灌に重ねて共感を覚えるからではないでしょうか。
関東一円には道灌が関係した神社仏閣が多数あり、道灌に関する逸話や言い伝え,更 には合戦場や城があちこちに残っております。銅像も12体あります。