太田道灌公520回忌記念誌

「もし道灌が長生きしたら」歴史はどうなっていたか

道灌が主君に謀殺された原因は、実はよくわかっていない。上杉定正は関八州を事実上押さえていた道灌の実力を妬ましく思っていたのだろうか。また、本当に 道灌謀反の動きがあったのだろうか。もしそうなら、上司と部下の関係でギクシャクしていることは道灌として十分承知していたことであるから、なぜ江戸から 伊勢原までほぼ丸腰で行ったのだろうか。道灌は「当方(上杉)滅亡」と言って死ぬ。その後、定正は手紙で弁明しているが、その文面からもなぜ殺さなければ ならなかったのか、十分な理由が読み取れない。

<「小田原城主 大森氏頼」の嘆き>

定正は道灌謀殺後、主家の上杉顕定に攻められて敗北する。そこではじめて「しまった」と思ったことであろう。上杉方の武将で道灌と親しかった小田原城主の 大森氏頼は定正に次のような手紙を書いている。「八州(関東)の安危は武(武蔵)の一州にかかり、武の安危は公(道灌)の一城(江戸城)にかかる。思うべ し、関八州はただただ公の双肩にかかりしを。なんぞやその公を謀殺し、求めて日月を地に落とすとは。吾まさに断腸の極み。君(定正)まさに慙愧(ざんき) すべし」。諌めの言葉のようでいて、厳しい批判を下した氏頼は、この後定正から離れてしまう。

歴史とは誠に妙なもので、一瞬一瞬は瞬く間に過ぎるが、そこで起こったことで重大には考えていないことが、すべて動かし難い事実となる。その一瞬に起こっ たことが違う結果になったら、別の歴史が展開されていたことになる。歴史に「もし」という問いはないが、あえてこの場で「もし」という言葉を使いたい。

<昔も今も変わらない人間の所業>

「もし道灌がもう少し長く生きたら」関東はどうなっていたであろうか。道灌は上杉家の内紛を表面化させず、関東を治めたであろうから、後年上杉憲政が長尾 景虎に上杉姓を譲ることもなかったであろうし、伊豆の北条早雲が関東へ進出してくることもなかっただろう。しかし非業の死を遂げていなければ、現代にまで 道灌の名前が残ることもなかったのではないかとも考えてしまうのだ。

歴史とは誠に微妙で示唆に富んだものであり、面白いと実感している。道灌の死後520年、いろいろなことに思いをめぐらしながら、人間のやっていることは昔も今も大して変わってはいないのではないか、などと考える昨今である。