太田道灌公520回忌記念誌

和歌に見る教養人・道灌の素顔

道灌には数多くの和歌が残っている。戦の陣にあっても和歌を作り、その詠草を京都の公家、飛鳥井中納言雅世郷へ送り添削を乞うたという記録があり、その熱 心さが知られている。戦乱の最中にありながら歌を詠み、心の平静を保つことができる精神力のすごさに感心させられる。ここでは道灌が1464年に上洛した 際、将軍足利義政に会い、その後宮中に招かれて後土御門天皇に拝謁した際に、道灌が即興で歌で答えたやりとりを示してみたい。

<後土御門天皇と会見、和歌でやりとり>

天皇が「武蔵野はどんな所か」と問うと、道灌は「露(つゆ)おかぬ かたもありけり 夕立の 空より広き 武蔵野の原」と答えている。空より広き武蔵野の 原とは見事な表現である。また天皇が「あの隅田川の都鳥はどうか」と問うと、道灌は「年ふれど まだ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」と答え た。
古歌で、伊勢物語の中で在原業平が「名にしおはば いざこと問はむ 都鳥 わが思う人は 在りやなしやと」と歌っているが、天皇はそれを知って質問した のに対し、そのことを胸の中でかみしめつつ答えたのである。因みに都鳥とは定説はないが、一般にユリカモメではないかといわれている。

<「武蔵野は萱(かや)ばかりと思っていたが」と感嘆>

次に天皇が「江戸城からの眺めはどうか」と問うと、道灌は「わが宿は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒ばにぞ見る」と答えた。当時の江戸城はすぐ近くまで海であったこと、霊峰と呼ばれていた富士の見える見事な景観であった事が分かる。

このように質問にすべて即座に歌で答えて天皇を驚かせたので、今度は天皇が「武蔵野は かるかやのみと 思いしに かかる言葉の 花や咲くらむ」と返している。武蔵野は萱ばかりと思っていたが、これらの歌を聞いて花が咲くように思ったという意味である。
鎌倉大日記に書かれているこれらの場面は、どこまでが本当かわからないと言われているが、道灌の和歌のレベルの高さを示すものとして記しておく。