太田道灌公520回忌記念誌

書状に垣間見る道灌の考え方・性格

この時代の関東から伝えられている文書は極めて少ない。残念ながら道灌の人柄を示すような文書は皆無で、他の文書から類推するしかない。いろいろなものから総合的に類推するに、道灌は当時としては最高の教育を受けた秀才であったろうと思われる。

<平明でわかりやすい和歌からうかがえるもの>

「道灌状」などに残されている文章は完璧な漢文であるし、築城のやり方、戦の仕方、和歌の腕前、京の高僧との接し方などを見ると、当時としては最高の教養人らしいのだ。和歌なども平明でわかりやすいものが多いが、その内容からは素直でまっすぐな性格が偲ばれる。
道灌の作った句で代表的なものとして「急がずば 濡れざらましを 旅人の
後より晴るる 野路の村雨」という名歌があるが、これなども含蓄があり、理解しやすく記憶に残る歌である。

<道灌状に見られる「上司批判」の落とし穴とは>

ただし秀才で育ちが良かっただけに他人の心を慮(おもんばか)る点に欠けていたのではなかろうか。有名な道灌状は、道灌が上杉顕定の家老高瀬氏にあてたも ので、その写しの後半部分が残されているが、長文の手紙の文中には北関東の戦で勝ったが、活躍した部下への恩賞が少ないと褒賞について批判的に書いてい る。この手紙の最後に次のような名文句がある。

「国に三不祥(不幸)あり。賢人有るを知らず一不詳。知って用いざるを二不詳。用ふるも任ぜざるを三不詳」と。
もっともな言葉であるが、このような手紙を部下からもらった上司や主君はどう考えるだろうか。当然、部下を憎らしく思っただろう。このように他人への配慮、特に上司への配慮に欠けたのが道灌唯一の欠点であったと思われる。結局はそれで身を滅ぼしたと言ってもいいであろう。

最後に道灌の人柄に関して名僧万里集九が読んだ弔辞を紹介しよう。「(道灌は)人の英となるが如し(英雄であった)。藹然(アイゼン)たる和気は花の栄に 就くが如し(穏やかな性格は花のようであった)」と。自明のことだが、藹然の藹は和気藹々(わきあいあい)の藹である。和歌好きの道灌は穏やかな人であっ たようである。