太田道灌公520回忌記念誌

戦の名手・道灌、不敗の陰に秘策あり

道灌は生涯三十数度戦って、一度も負けたことがない名将だといわれている。敵方である足利成氏も長尾景春も道灌が出てくるたびに負け戦となり、苦い思いを したに違いない。当時は馬で走りまわるのだが、道灌は兵を率いて遠く西は静岡、南は千葉県中部、東は銚子、北は群馬県の渋川と広大な関東平野を駆け巡った。

<足軽戦法を導入、知略を駆使した融通無碍の戦術>

その戦いはいつも何か工夫がしてあり、知略を駆使していることが感じられる。当時としては珍しい足軽戦法を編み出した。江戸城内で徹底的に訓練し、実戦で は集団で敵兵に襲い掛かり大きな戦果を挙げている。この足軽戦法とか江戸城の築き方(城を3つに分けて、合戦場と防御の場と伏兵配置場を作るやり方=道灌 かがり)は後に武田信玄が手本にしたと甲陽軍鑑に出てくる。
有名な江古田・沼袋での豊島泰経(やすつね)との合戦は武将同士の一騎打ちが中心の豊島勢に対し、足軽を中心とした組織立った戦略の戦いであった。
そこで圧勝し、石神井城から逃げた泰経を追って横浜の小机城を攻めたが、その進軍の際には兵士に「小机はまず手習いの始めにて、いろはにほへと散り散りに なる」と節をつけて歌わせ、士気を鼓舞したと伝えられる。これなども戦術面において、和歌を用いて見事な手腕を発揮した例だ。

<好敵手・北条早雲と正反対だった生き方>

道灌は北条早雲と同じねずみ年に生まれた。よく言われることだが、道灌は自分のために兵を動かしたことが一度もなく、すべて上司=主君の命によって兵を動 かしている。一方、早雲はすべて自分のためである。道灌は55歳で主君に謀殺されてしまうが、早雲は83歳まで長生きする。最後に関東を掌握したのは早雲 であった。
道灌と早雲の間には異なる背景があったし、人間としての生き方の違いもあった。道灌は義とか忠を重んじ、下剋上を望まぬ「体制維持派」だった。現に長尾 景春に一緒に決起しようと勧められているが、それを押さえている。もし決起したら、当時の兵力と人望からして簡単に関東を握れたであろう。

一方、早雲はこの時代はまだ京都におり、応仁の乱で下剋上を目の当たりにしている。後半生になって歴史上に忽然と姿を現す早雲にとっては忠義とか家の安泰 などは関係のないことであった。早雲には時代の先が見えていたのであろう。名を捨て実を取るか、実を捨て名を取るか。今の時代でも直面する問題であり、自 分だったらどうするか迷う問題である。しかし私としては、道灌の生き方に軍配を上げたいと考えている。