太田道灌公520回忌記念誌

太田道灌の実像を探る

太田道灌公墓前祭実行委員会会長
太田資暁

太田道灌の生きた時代

太田道灌といえば世界的な大都市である東京の礎を築いた人物として知られている。一方、昭和初期は学校の教科書に「山吹の里」の話が載っていたことからも 文武両道の鑑として有名だった。しかし最近の人は太田道灌の名前は聞いたことはあっても、その事跡を知らない人がほとんどではなかろうか。

今でも関東各地には道灌が関係した神社仏閣はたくさんあるし、「山吹の里」などの逸話や伝説がたくさん残されている。500年前に関東で権勢を誇ったのは 山内(やまのうち)上杉家であるが、その一門に連なる扇谷(おおぎがやつ)上杉家の一宰相に過ぎない道灌の名前がどうしてこれほど残っているのだろうか。

<江戸庶民の「判官びいき」に合致した生き方>

最大の理由は彼の生き様と非業の死が、後の江戸庶民の感性に合致し語り継がれることになったからだろう。主君のために働いたのに、主君の軽率な判断で謀殺されたという悲劇は「判官びいき」の江戸庶民のメンタリティーにピッタリであったということだろう。

「当方滅亡」と叫んだ道灌の最後の言葉通り、その後は上杉家同士の骨肉の争いが起こり、そこに古河(こが)公方の足利成氏(しげうじ)と伊豆の北条早雲が からみ、関東が泥沼の戦場となって、庶民は大変な苦しみを負うことになった。後に平和な江戸時代が来ると、「山吹の里」の話を書いた「常山紀談」や「太田 道灌雄飛録」の物語などがおおいに売れ、道灌人気は盛り上がる。江戸庶民は「道灌さん」と呼んで慕わい、その後の明治、大正、昭和、平成の東京庶民にも語 り継がれた。

<戦乱続きの関東、群雄割拠の状況に>

それでは道灌の生きた時代について簡単にまとめてみたい。今から約550年前、関東では2つの政権が壮烈な領地争いを展開していた。その起源は足利尊氏が京都の室町幕府を開いたときに、息子の基氏を関東公方と称して鎌倉へ派遣したことに遡ることができるだろう。
その後、時代を下るに従い、京都の幕府と関東公方は対立を深める。さらに関東公方を支える管領職にあった上杉氏が公方を脅かす事件を起こすようになる。 鎌倉にいた公方の足利持氏は京都の幕府に猛烈に反抗したが、成功せずに鎌倉の永安寺で没した。その後、関東管領の山内上杉氏が関東を治めた。それを支えた のが一門に連なる分家の扇谷上杉氏だった。

その後、足利持氏の息子の成氏が関東公方の再興を目指して、父の恨みとばかりに兵を挙げたが、京都の政権と結びついた上杉氏の軍勢に阻まれて北へ下り、茨 城県古河に政権を開くこととなった。その時の戦いで鎌倉は火の海となり、以後、日本における政権の中心から消えることになった。
京都の将軍足利義政は息子の政知を関東へ派遣するが、彼は関東に入れず伊豆の堀越に居を構え政権を作った。ここに関東は古河公方と堀越公方の2大政権が出現し、北は群馬県渋川から南は江戸を結ぶ線を中心にして各拠点の争奪戦を繰り返すこととなった。