GoTo 太田道灌銅像

太田道灌の銅像は、関東とその周辺に12体あります。それらの銅像があるところは、もちろん道灌ゆかりの場所です。したがって道灌の像を巡れば、関八州を駆け抜けた道灌の生涯が見えてきます。最寄りの道灌像から訪問しましょう。

道灌にまつわる寺社、銅像など一覧にまとめています。(道灌紀行著者:尾崎孝氏作成)

1.江戸城を見つめて立つ道灌(東京都千代田区)

 JR線東京駅から5分あるいは有楽町駅から1分も歩くと「東京国際フォーラム」というイベント会場へきます。ガラスホールに入ると、パブリックアートの太田道灌像と説明板に出会います。この銅像は台座の碑文によると、1958年(昭和33年)開都五百年を記念して、彫刻家の朝倉文夫氏が制作し、この地にあった東京都庁舎の前庭に設置されました。朝倉氏は制作にあたり、道灌の子孫の太田資博氏(江戸掛川系18代)をモデルにしたそうです。そして1991年(平成3年)都庁舎が新宿へ移転したとき、太田道灌像はやはり丸の内に立ちつづけるべきだと判断されました。

 ここの道灌さんは、腰に大刀を佩(は)いて小刀と扇子を差し、左手に弓を持った壮年の頃の堂々たる姿で、今もやはり自らが築城した江戸城の方を見つめて立っています。着物の柄には、太田家の定紋(じょうもん)である「桔梗」と替紋(たいもん)の「違い鏑(かぶら)矢」が浮きあがってよくわかります。
銅像の周りには日英両語と写真で、江戸城と太田道灌についての説明版があります。

東京国際フォーラム 今も江戸城を見つめて立つ太田道灌像・朝倉文夫制作

今も江戸城を見つめて立つ
太田道灌像・朝倉文夫制作

太田道灌像・着物に家紋の「太田桔梗」と「違い鏑矢

太田道灌像・着物に家紋の
「太田桔梗」と「違い鏑矢」

※太田道灌像・東京国際フォーラム(東京都千代田区丸の内3-5-1)へのアクセスは、JR線の東京駅あるいは有楽町駅から徒歩数分です。

2.「回転一枝」の像(東京都荒川区)

 JR山手線の日暮里駅東口前広場に、太田道灌の馬上姿の銅像と「回天一枝(かいてんいっし)」の碑があります。道灌が関八州を駆けぬけて、三十数度の戦に勝ちつづけた壮年の頃の勇姿と思われます。この像は1989年(平成元年)に、僧侶で彫刻家でもあった橋本活道氏により制作され、荒川ライオンズクラブが寄贈したものです。作者の橋本氏と時の東京都知事鈴木俊一氏が「回天一枝」と題して鈴木氏が揮毫しました。

 「回天一枝」とは、なかなか味わい深い命名です。道灌の大義は、自らが『太田道灌状』に記しているように「天子の御旗を掲げて、関東の御静謐(ごせいひつ) を実現すること」でありました。それはまさしく回天の大業と言うべき難事でした。 そして「一枝」と言う言葉には、あまりにも有名になった山吹伝説の乙女の道灌に対する、細やかな心遣いが感ぜられます。

「回天一枝」の像

「回天一枝」の像

「山吹の花一枝」の像

「山吹の花一枝」の像

 道灌はこの銅像のような馬上姿で、関八州をいつも電撃のごとく素早くはげしく、部下をひきいて東奔西走したのであります。道灌軍の強かった理由のひとつは、大将が常に先頭をきって闘ったからだといわれています。この像は、先駆けする武将太田道灌の雰囲気がよく表れている傑作です。 2018年5月23日、この一角に「山吹の花一枝 (やまぶきのはないっし)」と題し、道灌に山吹の花一枝をささげる乙女の像(平野千里氏制作)が設置されました。
また近年毎年11月に、これらの銅像の周辺で「日暮里道灌まつり」が開催され、各地から道灌ゆかりの人や物産があつまり、楽しい時が流れます。

※「回天一枝」「山吹の花一枝」の像(東京都荒川区西日暮里2丁目)へのアクセスは、JR山手線の日暮里駅東口前の広場です。

3.新宿の「久遠の像」(東京都新宿区)

 都営地下鉄大江戸線の都庁前駅を出ると、いつ来てみても宮殿を連想する東京都庁が天空にそびえ立ち、そのうしろに広大な新宿中央公園があります。この公園に、道灌と乙女の等身大の銅像「久遠の像」があります。広い公園なので探すのがたいへんです。

 この像は1978年(昭和53年)に、東京都新宿区生まれの彫刻家山本豊市氏が制作しました。説明板には「太田道灌が武蔵野で狩りをした時の伝説の一状景」とあります。狩姿の若い道灌は、やや腰をかがめています。乙女はひざまずいて山吹の一枝を、扇に載せてさし出しています。もちろん像の周囲は、山吹で囲まれています。山吹満開の頃は一幅の絵であり、山吹の里の雰囲気を醸し出しています。

※久遠の像・道灌と乙女の銅像・新宿中央公園(東京都新宿区西新宿二丁目)へのアクセスは、地下鉄大江戸線都庁前駅から徒歩約

久遠の像

4.佐久の「久遠の像」(長野県佐久市)

新宿の「久遠の像」と同じ銅像が、長野県の佐久市立近代美術館近くの佐久市立図書館前庭にあります。こちらの「久遠の像」は、新宿のものと同じではあるものの、周りの様子や配置が違うので、やや異なった雰囲気を出しています。

新宿、佐久両方の道灌銅像とも、美術年鑑社社長油井一二(ゆいいちじ)氏の寄贈です。油井氏は、ふろしき画商といわれた、佐久市出身の実業家で、膨大な美術コレクションを佐久市に寄贈しました。

※久遠の像・道灌と乙女の銅像・佐久市立近代美術館(長野県佐久市猿久保35)へのアクセスは、JR北陸新幹線の佐久平駅から車で約10分、あるいはJR小海線の北中込駅から徒歩約15分です。

久遠の像 佐久

佐久市立図書館前の「久遠の像」

久遠の像 佐久

「久遠の像」説明板

5.山吹の花を持つ道灌像(埼玉県越生町)

埼玉県越生町の龍穏寺の本堂の前に、太田道灌の狩姿のやや小振りの銅像があります。

この像は、1985年(昭和60年)の道灌五百年忌の砌(みぎり)に、東京芸術大学教授の橋本次郎氏により制作されました。ここの道灌さんはあごひげを生やした若々しい表情で、腰に太刀をさげ、左手に弓矢、右手に山吹の枝を持っています。山吹伝説の道灌が立っているのです。

 左手の小高い所に、太田道真・道灌父子の墓所があります。
山枝庵の向こうの建康寺には、道灌の父道真の退隠の地の碑があります。

※太田道灌像・龍穏寺(埼玉県越生町龍が谷452)へのアクセスは、JR八高線越生駅から車で約10分です。

龍穏寺

山吹の枝を持った太田道灌像

龍穏寺

太田道真退隠の地の碑

6.躍動する道灌像(埼玉県越生町)

 2016年12月5日、越生町役場の玄関ロビーに、太田道灌像とガラス絵のパブリックアートが登場しました。従前より越生町の町長室には、三枝惣太郎制作の小さな太田道灌像が秘蔵されていました。この銅像を原像とし、埼玉県立越生高校の美術科教諭と生徒たちが先年、やや小ぶりの太田道灌像を制作しました。この像は弓を持った狩り姿であり、足を踏ん張り半身になって身構える、極めて躍動的な若き日の道灌像です。

 その背後のガラスに山吹の里歴史公園の絵が焼き付けられています。したがってこの像とガラス絵は、道灌が若き日に、父道真のもとを訪れたときの情景をほうふつとさせる秀作です。

越生町道灌
越生町山吹の里歴史公園

7.川越のダンディ道灌像(埼玉県川越市)

 健脚の人は、西武新宿線の本川越駅から蔵の町並みを通り、川越市役所前でひげの太田道灌像に会ってから、川越城本丸御殿まで歩くのがよいと思います。

 この太田道灌像は、1972年(昭和47年)川越市の市制五十周年を記念して市庁舎が新築された際に、市庁舎前すなわち川越城大手門跡に建てられました。各地の道灌像は、綾藺笠(あやいがさ)を深くかぶっているため顔に影が差し、その面魂がはっきり見えないのが残念です。ここの道灌さんも綾藺笠をかぶっているものの、西日が当たると素顔を見せます。近づいてみると、仕事盛りの精悍で苦みばしった、いい男の面構えが見えます。

毎年10月には、川越祭りで連雀町の太田道灌山車が蔵造りの街並みを練り歩きます。

※川越城の太田道灌像へのアクセスは、JR線の川越駅、東武東上線の川越市駅、あるいは西武新宿線本川越駅から徒歩10分、あるいは小江戸巡回バスに乗り大手門跡(川越市役所)で下車です。

川越市役所前の太田道灌像

川越市役所前の太田道灌像

川越まつり

川越祭りの太田道灌山車

8.嗣法の道灌像(埼玉県川越市)

 川越市の志多町から北西の県道39号線に入り、入間川の雁見(かりみ)橋を渡って約500メートルもいくと川越市鯨井(くじらい)というおもしろい名前の地域があり、そこに曹洞宗の長福寺があります。この寺は、1436年(永享8年)雲崗俊徳(うんこうしゅんとく)が開山となり創建された古刹です。この寺の本堂前に、太田道灌を曹洞宗に導いた雲崗俊徳と道灌の銅像があります。銅像の台座には、「開山 雲崗俊徳禅師 弟子 太田道灌公」と彫られています。

 この銅像は、2011年(平成23年)3月、静岡県伊東市の彫刻家重岡建治氏により制作されました。長福寺の住職によると、道灌は雲崗俊徳禅師から嗣法(しほう)を受けたので、そのことを表した銅像だそうです。嗣法とは俗な言葉でいうと、曹洞宗の免許皆伝のようなことです。

※嗣法の太田道灌像・長福寺(埼玉県川越市鯨井1143)へのアクセスは、JR線川越駅から車で約20分ですが、道がやや複雑です。

雲崗俊徳と太田道灌の銅像

雲崗俊徳と太田道灌の銅像

9.文人の道灌像(埼玉県さいたま市)

 さいたま市大宮駅で東武野田線に乗り換えると、五つ目が岩槻です。さいたま市の旧岩槻区役所前にはかつて、岩槻城の築城者とされていた太田道灌の銅像が立っていました。その後、岩槻城築城者について、太田氏、渋江氏、成田氏がエントリーされ、岩槻城築城者の最終決定はペンディング状態となりました。

 さらにその後、岩槻市とさいたま市が合併され、岩槻区役所が取り壊され、そこに2020年(令和2年)2月22日、さいたま市岩槻人形博物館と交流会館がオープンしました。かつては、岩槻市役所玄関で来る人を迎えてくれた道灌さんは今、博物館の脇にしずかに立って、訪れる人々を見つめています。

 ここの道灌さんもまた、笠をかぶり弓矢と太刀を持っています。他の像と違って右手に、たたんだ扇子を持っているので、文人の道灌と言われています。

 この道灌像は、1985年(昭和60年)岩槻ライオンズクラブが寄贈したものであり、制作者は京都市の作島栄治氏です。
人形博物館から御成街道をしばらく歩くと、右側に岩槻城の三の丸跡を示す石柱があるので、そこを右折するとすぐに岩槻城址公園です。

※太田道灌像・さいたま市岩槻人形博物館(埼玉県岩槻区本町6丁目1-1)へのアクセスは、東武野田線岩槻駅から徒歩約10分です。コミュニティバスもでています。

岩槻人形博物館

岩槻人形博物館

岩槻人形博物館の銅像

博物館脇の太田道灌像

10.武人の道灌騎馬像(埼玉県さいたま市)

 岩槻駅改札前の観光案内所にある地図で、場所を確認してから歩くと、十分程で曹洞宗の芳林寺へ着きます。この寺は、太田道灌ならびに岩槻城主太田氏資有縁といわれています。太田氏資は、母の芳林妙春尼を追善するため、母をこの寺の開基とし、寺号を芳林寺としました。

 芳林寺の山門をくぐるとすぐ右側に、太田道潅のプロンズ像が建っています。紺碧の空を背景に、兜を輝かせて鎧に身を固めた、堂々たる武将としての太田道灌の騎馬像がそびえ立っています。この像は2007年(平成19年)4月28日に完成披露されたものです。この武人像は、富田憲二氏と山本明良氏の制作です。 芳林寺の境内には、不遇の岩槻城主太田氏資の像もあります。

※太田道灌騎馬像・芳林寺(埼玉県さいたま市岩槻区本町1-7-10)へのアクセスは、岩槻駅から徒歩約15分です。

芳林寺境内の道灌像

芳林寺境内の太田道灌騎馬像

太田氏資の像

太田氏資の像

11.猿を連れた道灌像(神奈川県東伊豆町)

 東京駅からJR線の「踊り子号」に乗ると約2時間で、伊豆急線の伊豆熱川駅へつきます。駅前の源泉やぐらから湯けむりが立ち、近くに足湯があります。駅から海岸通りの方へ数分歩くと、太田道灌の銅像に出会います。この銅像は、西伊豆出身の彫刻家堤達男氏の制作で、昭和50年頃、地元の観光協会と旅館組合が建てました。銅像は温泉の成分のためか赤く変色しています。

 ここの道灌は猿を連れています。道灌が天城山で巻き狩りを行ったとき、猿が湯につかっているのを見て、温泉を発見したという伝承にちなむのだそうです。

 道灌がいつこの地を訪問したのかわかりません。1476年(文明8年)道灌は堀越御所訪問の足を熱川まで延ばし、江戸城の石垣のための伊豆石を探したのではないかとの説があります。

 また次のように推測する人もいます。その少し前まで伊豆半島は、流人を送る僻地であったので、太田道灌が駿河遠征の帰途に騎馬隊を率いて、伊豆の国市韮山から海岸沿いにあるいは天城山を越えて東海岸へ入ることは不可能に近いという考えです。今日でもJR線で伊東へ入るために、長いトンネルを通らねばなりません。したがって、1456年(康正二年)江戸で築城が始まったころ、道灌が城壁の石材を求めて船で伊豆の海岸を探索し、偶然、猿が湯で癒している熱川温泉を発見したにちがいないということです。

※太田道灌と猿の像(静岡県東伊豆町奈良本)へのアクセスは、伊豆急線の伊豆熱川駅から徒歩約5分です。

太田道灌と猿の像

太田道灌と猿の像

江戸城の石が切り出された細間の段

江戸城の石が切り出された細間の段

12.伊勢原の道灌像(神奈川県伊勢原市)

 伊勢原市役所前には、やはり綾藺笠(あやいかさ)をかぶった道灌さんが立っています。1975年(昭和50年)相模観光株式会社から寄贈されたこの銅像は、二宮尊徳像の制作で有名な三代目慶寺丹長(けいじたんちょう)氏の制作です。

 道灌さんは弓矢を持ち、着物の柄には太田家の家紋である「桔梗」と「違い鏑矢」とを浮き出しています。青空と白雲を背景に、ひとり屹立する道灌さんの表情は見えません。しかしその立ち姿には、一切を今世のわが運命として受けとめた剛毅さとともに、主君に裏切られた無念さと悲しさがにじんでいます。

 太田道灌が今はのときに叫んだという「当方滅亡」とは、道灌が上杉氏に危機を教えるために発した最後の言葉でありました。山内、扇谷の両上杉家は当主の狭量と暗愚によりその勢力を弱め、ほどなく滅亡の坂を転がりはじめました。

 太田道灌が今はのときに叫んだという「当方滅亡」とは、道灌が上杉氏に危機を教えるために発した最後の言葉でありました。山内、扇谷の両上杉家は当主の狭量と暗愚によりその勢力を弱め、ほどなく滅亡の坂を転がりはじめました。

 ここから数キロ北方へ行くと、洞昌院があり、太田道灌の墓所が隣接しています。そこから少し北方の大慈寺にも、道灌の墓があります。

※太田道灌像・伊勢原市役所(神奈川県伊勢原市田中348)へのアクセスは、小田急線の伊勢原駅から徒歩約15分です。

伊勢原市役所道灌像

伊勢原市役所の太田道灌像

伊勢原甲冑隊

伊勢原甲冑隊

13.戦場に消えた太田道灌像

 実は、もう一体の太田道灌銅像の傑作がありました。それは、朝倉文夫氏の実兄渡辺長男氏が制作した、パブリックアートです。その道灌銅像は、1920年(大正9年)に、旧東京府庁舎の正面玄関前に設置されたものの、1943年(昭和18年)に供出されて戦場に消え、石こうレプリカも戦災で焼失しました。

下の写真は、昭和18年4月8日の読売新聞に掲載されたもので、そのキャプションに「東京府庁の正面玄関で決戦下の大東京を睨んでいた太田道灌と徳川家康の銅像が、こんど銅像仲間に率先して勇ましく出陣した。両銅像とも約百七十貫である」と記されています。

供出される道灌像と家康像

供出される道灌像と家康像・昭和18年4月8日の読売新聞より

※道灌紀行(尾﨑孝著)より引用アリ