太田道灌非業の死

道灌は1486年7月26日、伊勢原市にある相模守護職上杉定正の館で風呂に入っているところを襲われる。
道灌は「当方(上杉家)滅亡」と言って絶命する。この事件は当時の関東の勢力図を理解していないと、わかりにくい。

もともと足利尊氏は京都の幕府のほかに、関東公方と言う独立機関を作り息子を鎌倉へ下向させた(いわゆる鎌倉公方として、関東以北を管轄)。
後にこの関東公方が分裂。
自身の血筋の正当性と関東での覇権を唱える足利成氏は茨城の古河で古河公方となり関東八家を従えることになる。
一方、室町幕府は新しい鎌倉公方として足利政知を送り込むが、政知は伊豆の堀越の地に留まり、堀越公方となり、上杉氏と組んだ。
両者は、利根川・荒川を挟んで関東を二分する争いを繰り広げる。
(堀越の地は、やがて北条早雲に攻められることになる)

鎌倉公方を補佐する関東管領は山内上杉家が務め、それを補佐する形で相模守護職を扇谷上杉家が務めた(山内も扇谷も現在の鎌倉地名にある)。
その扇谷上杉家の家宰(筆頭家老)が太田道灌であった。
扇谷上杉家は当初小さな勢力であったが、道灌の活躍により山内上杉家に匹敵するほどの力を持つようになった。

しかし家宰に過ぎない道灌が主家を上回る勢いともなれば、両家トップはおもしろくない。
山内上杉顕定は扇谷上杉定正に「道灌はおまえの首を狙っているぞ」と讒言する。
定正は日頃から自分よりも有名になった道灌を妬ましく思っていたので、前後の見境もなく道灌を謀殺してしまう。

道灌は主家のために働いてきたのだが、妬みだけで有能な部下を殺してしまった定正は浅はかと言うほかない。
この謀殺劇でニンマリしたのは、讒言した山内上杉顕定。
翌年には顕定は定正を攻める。
その後、両上杉家は長享の乱を勃発させ泥沼の抗争を繰り広げるが、道灌の予言通り両家は衰退の一途を辿り、66年後に越後の長尾景虎に管領職と上杉姓を譲らざるを得なくなった。
上杉謙信の誕生である。
そして北条早雲はその間隙をついて関東に入り、関東を手に入れてしまうのである。

補足

毎年命日である7月26日には、道灌の墓のある伊勢原市の洞昌院にて法要が行われる。
主催は、NPO法人「太田道灌顕彰会」
今年2019年は533回忌が行われ、全国各地から道灌ゆかりの人やフアンの方々が集まった。

NPO法人「太田道灌顕彰会」

この洞昌院はもともと道灌が再興した寺であるがこの寺の言い伝えに以下のようなものがある。
上杉館で切りつけられた道灌は、近くの洞昌院までたどり着いたものの、門扉が閉まっていた。
騒ぎを聞きつけた和尚が扉を開いて道灌を引き入れたが、既に絶命していた。
以降、洞昌院の山門には扉をつけないこととなった、という。
寺の近くには道灌の従者の墓である七人塚がひっそりと残っている。

尚、太田道灌の足跡を辿るには尾崎孝著「道灌紀行三訂版」が大変参考になる。
著者は関東各地200か所を探訪し詳細な記録を記している。

続:道灌紀行は限りなく

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