猫地蔵

新宿の三角ビル前の広場に、世界的に有名な彫刻家・流政之氏の手になる猫の像があった。
説明文に「江戸開都の恩人・太田道灌を救った猫。名前がないのは不憫(ふびん)。
玉ちゃんと名付け、のちのちまで江戸の守りとす」とある。

1477年4月、今の中野区哲学堂の裏辺りで太田道灌と、石神井を地盤とする豊島一族との一大決戦が行われた。
世に言う「江古田が原・沼袋の戦い」である。
江戸城から出て神田川・妙正寺川を遡った道灌軍と、石神井城と練馬城(今の豊島園)から出撃した豊島兄弟が激突した。

この近くにある自性院と言うお寺に、次のような言い伝えが残っている。
初戦での厳しい戦いの後、道灌は夜道で迷ってしまう。
その時、目の前に現れた黒猫がさかんに手招きをするので、その後をついていったら自性院の地蔵堂があった。
道灌はそこで一夜を明かし、翌日体制を立て直して反撃。敵を石神井城に追いつめ勝利した。
闘いの後、道灌は猫を江戸城に連れて帰り、たいそう可愛がった。猫の死後その石像を自性院に寄贈したと伝えられている。

江戸時代にこの猫地蔵の人気が高まり、参拝者がなで回したので、地蔵の額が磨り減りつるつるになってしまった。
今では年に一度節分にしか開陳しない。この自性院の猫が、招き猫の元祖の一つと言われている。

この戦いにより豊島氏は滅亡。石神井城最後の日に、城主豊島泰経と娘の照姫は三宝寺池に入り自害したという悲話が残っている。
石神井公園の中には追悼の殿塚・嫁塚があり、練馬区では毎年開かれる「照姫祭り」では、照姫に扮した女性が輿で練り歩く。
これ以外にも、関東一円には道灌に関する寺社や言い伝えが多数残っている。